1. おいたち、家族、結婚
2. 新しい婦人運動の幕開け
3. 暮らしに根づいた組織づくり
4. 働く婦人のための「家」づくり
5. “奥さん”国会ヘ……参議院議員生活18年
6. 家庭婦人の団結……主婦連と主婦会館
7. 素顔の奥むめお



大正元年(1912)

大正8年(1919)

九州一巡の講演ビラに印刷された写真

大正14年(1925)


鍛治屋の息子に学問はいらぬと学校に行かせてもらえなかったため、毎晩独学で勉強した。その無念さから、子供たちへは涙ながらに、どこまででも上の学校へ行かせるからしっかり勉強せよと口癖のように言った。漢詩の同人誌を出し、福井市の市会議員になる。

時期不詳

幼少の頃神童といわれた。美術学校へ進みたかったが父に許されず、東京帝国大学の電気科を卒業し、技師となった。学生時代にはむめおを美術館に連れていき、人生や文学などを語り合った。むめおは兄をいちばん尊敬していた。

時期不詳


夫奥榮一と自宅にて(東京毎夕新聞写す)
榮一は和歌山県新宮出身。佐藤春夫と同窓で、一緒に中学を放校になり上京。早大、大正大を中退。詩人だったが、生活のために翻訳などを手がけた。性格の弱い理想主義者で、社会問題、婦人問題などを勉強し、むめおを内助した。訳著に『金羊毛』など。

昭和2年(1927)


資料



1-a
 
●むめおの母の病床記

長患いで実家に戻って闘病中の手記。家族と別れての毎日は、死のうか生きようかの毎日だと嘆き、特に、乳も飲ますことができずに生後すぐに他家に預けた末子の富尾のことを心配して、早く大きくなれと念じている。むめおには妹たちの肌着の着替えを見てやってくれと頼み、みんな風邪をひいたり、病気になるなと言っている。字も満足に書けない無学な母の、子を思う切々たる心情がうかがわれる。

明治42年(1909)


  ●むめおの母の手記要旨

母はおじいさんにくわしく話はできないが、あつくお礼を言って頼んでください。どうぞ番をしてくださいと。私はこうしていても身のやる瀬がない。毎日死のうか生きようかの毎日です。
(中略)
子供のおさめやと思うに、富尾はもう終いになって、誠にいとし。親があるのに乳も飲ませてやれず、乳のないところに預けて、今では慣れたであろうか。夜ねた時に乳をすわないと淋しいやろ。
(中略)
毎日富尾のことを思うと、早く大きくなれば良いと思います。このことは皆に話してください。


1-b
 
●むめおの父が友人にあてた手紙

明治25年(1892)


1-c
 
●『婦人週報』の料理記事

むめお(当時和田むめお)は女子大の寮で評判になるほど料理の腕がよかった。栄養価を考え、安い材料でもいろいろと工夫をこらして美味しい料理を作った。これがきっかけとなり、女子大の先輩、小橋三四子が発刊した『婦人週報』に料理記事を連載した。「かるた会のごちそう」、「野遊びの洋風弁当」など、バラエティとアイデアに富む楽しい記事を書いた。

大正6年(1917)




1-d
 
●日本女子大学校の卒業証書

創立者成瀬仁蔵校長をはじめ、のちに校長となった麻生正蔵や井上秀、国際法で有名だった中村進午博士など、貴重な自署名が見られ、当時のそうそうたる人物が教授陣だったことがうかがえる。

大正5年(1916)

 

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