1. おいたち、家族、結婚
2. 新しい婦人運動の幕開け
3. 暮らしに根づいた組織づくり
4. 働く婦人のための「家」づくり
5. “奥さん”国会ヘ……参議院議員生活18年
6. 家庭婦人の団結……主婦連と主婦会館
7. 素顔の奥むめお

 子供をかかえて働いていた経験から保育所の必要性を痛感、昭和5年東京本所に協同運動としての婦人セツルメントを開設した。セツルメントでは託児施設のほか和洋裁の講習会や社会問題講座も開き、婦人たちに消責経済のことを学ぶ機会をつくった。奥むめおは「町に一つ、村に一つ、婦人セツルメントを」と全国に呼びかけた。
 さらに、共同の炊事場や洗濯場のある宿泊施設、扶け合い集う家づくりの運動を展開、その成果は、昭和8年大阪に「働く婦人の家」設立を皮切りに、東京牛込、福井、名古屋など各地に「働く婦人の家」が作られ、勤労婦人たちの憩いと教養の「家」となり、戦時下も続いたが、東京では昭和20年3月の大空襲で焼失、奥むめおの労は灰となってしまった。


 

 

藤村男爵がセツルメントを訪問

かつて新婦人協会で活動していたころ、奥むめおは赤ん坊だった長男杏一を連れて藤村男爵邸に陳情に行った。子どものいない男爵は赤ん坊をとても可愛がり、「あなたのようなお母さんがやっている運動ならば」と、治安警察法改正に協力した。

昭和8年(1933)

 

 

海浜寮への出発

松竹少女歌劇や築地の新劇を買い切り、その切符の収益で神奈川県片瀬と、千葉の海岸に「臨海ちぐさ寮」をつくった。

昭和11年(1936)
東京牛込の働く婦人の家にて

昭和10年(1935年)
婦人セツルメントの入口

昭和10年(1935)頃
改築された婦人セツルメント

昭和17年(1942)

 

 

 

 

東京働く婦人の家

職業婦人社に集まる若い職業婦人たちの強い希望と働きかけで、東京牛込に「東京働く婦人の家」が誕生。和裁、洋裁、生花、英語、料理、婦人問題などの講座や、レクリエーションの施設として開放された。

昭和10年(1935)

 

 

 

 


 

 

 

 

働く婦人の家の資金集めのための観劇会

ゴーリキーの「どん底」を鑑賞。
観劇会が終わると、集まった切符代金を数える。これが大切な運営資金となる。

昭和11年頃

 

 

 

 


資料



4-a
 ●国民女学校(婦人セツル女学校)設立趣旨書

昭和13年、農村の中堅婦人を養成するため、苦学志望の女子の女学校を設立する計画案を作って公表した。希望者をセツルメントに入寮させ、半年間の基礎学習の後、希望の学校(産婆、看護婦、保母、製図、印刷、栄養等)に通学させ、卒業後は帰農することを原則とした。全国から反響があったが、結局この案は実現しなかった。その代わりに、セツルメント夜間女学部を増強した。
昭和13年(1938)

4-b
 ●東京働く婦人の家拡張期成同盟への寄付金の振り込み通知票

昭和16年(1941)

4-c
 ●ヤマサ醤油株式会社の外岡松五郎氏にあてた改築募金についての手紙

(手紙を受け取った外岡氏が後に軸装した)
昭和14年(1939)

4-g
 ●働く婦人の家結婚相談の栞

昭和11年頃(1936)頃




4-c
 ●ヤマサ醤油株式会社の外岡松五郎氏にあてた改築募金についての手紙

(手紙を受け取った外岡氏が後に軸装した)
昭和14年(1939)

4-g
 ●働く婦人の家結婚相談の栞

昭和11年頃(1936)頃





4-d
 ●「働く子供たちの親御さんへ」

ラジオ放送のための奥むめお自筆原稿
昭和15年(1940)

4-e
 ●婦人セツルメントだより

セツルメントの活動を、ワラ半紙にガリ版刷りで、週一回発行した。園児たちの様子、遠足や筍堀り、お誕生会の報告、父の会、母の会の案内などを載せた。おべんとうのおかずはセツルメントで作って皆一緒に食べたので、その献立表もある。また、セツルメント改築基金のため、古新聞を園児一人三枚づつ持たせることなど、父母の共同運動の意識を高めた。
昭和11年(1936)   

4-f
 ●林町保育園(婦人セツルメントの保育園)会計簿

昭和5年(1930)

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